「いいとき生まれた!昭和30年代」

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 第85号 甦れ!手水器



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        いいとき生まれた!昭和30年代  第85号     


                    2007. 10. 21      


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  昭和30年代には、まだ見かけることがあったのに、
  今はなくなってしまったものの中で、
  とても気になってる道具があります。
  
  
  当時でも使われる家は限られていましたが、 
  子供心にもいたく感心した優れものでした。
  が、誰に聞いても名前がわからないがために、
  取り上げるのが後回しになっていました。
  でも、ついにわかったんですよ。
  もっとも、探り当ててみたら、
  拍子抜けするほど、そのまんまの名前でした。
  
  
  手水器、または吊り手洗い器。
  
  
  この名前を聞いてぴんと来ました?
  
  
  はいはい、
  当時は一般的だった汲み取り式便所の出入り口近くで、
  軒先に吊り下げられ、
  日本手ぬぐいとともに揺れていた、
  あれですよ。
  

  トイレに水道をひくことが、
  当たり前になったのは、
  水洗トイレの普及によってですから、
  汲み取り式便所の場合は、
  水道がついていないほうが普通。
それで、水道のあるところまでいって、
  手を洗っていましたね。


  日本人は、もともと清潔好きゆえ、
  水道すらなかった時代でも、
  手水鉢から水を汲むなどして、洗っていたのですが、
  そんな中、明治になって登場した道具が、この手水器。
  それが、汲み取り式便所主流の昭和30年代までは、
  まだあちこちで使われていました。


  蓋のついたバケツ様のタンクの下に、
  シャワーの口みたいなのがついていて、
  中心から1本、長く細い芯棒が出ている。
  それを手のひらで押し上げると、
  中でせき止められてたタンクの水が出てきて、
  手が洗えるという、よく考えられた構造になってました。
  しかも、手で触れる部分が少なく、
  その部分も、その都度洗われるのですから、
  水道の蛇口より清潔。
  
  
  ただこれは、水が垂れ流しになるので、
  外に吊るさなくてはなりません。
  だから、トイレの近くに、
  外へ通じる場所があって、
  しかもその外が、
  自分の家の敷地の、
  表からは目立たない場所でないと使いにくいもの。
  

  したがって、庭に面した縁側などがあって、
  (縁側はたいてい庭に面しているものですけど)
  そのつきあたりがトイレになっているような、
  日本家屋によくある構造には、
  向いていました。  
  そういうこともあって、
  使える家は限られたのでしょう。
  

  我が家の場合も、このために、
  これは使わなかったのだと思います。
  当時住んでた都営住宅では、
  トイレの位置と、庭の位置が、
  部屋をはさんで正反対。
  トイレに一番近い表へ通じるところといえば玄関しかなく、
  いくらなんでも玄関先には吊るせません。


  ですから、私がこれに出会うことができたのは、
  親の郷里に行った時に、時々泊まった伯母の家と、
  何度か登場している、
  父が仕事の事務所兼倉庫として借りていた、
  蔵前の家でした。
  そこへ行くときは、
  これが使えるのが楽しみでした。


  この蔵前の家は、
  戦後建てられた家だそうですが、
  なんとトイレは、すでに水洗でした。
  どう考えても、自分の記憶には、
  水洗トイレしかないので、
  途中で工事でもしたのかと思って父に確認したところ、
  やはり最初からそうだったとのこと。


  もっとも、その水洗トイレの形は、
  今はないタイプで、
  タンクは、正面の天井に近いところにあります。
  そして、そこから垂れ下がっている、
  取っ手のついた鎖をひっぱることで、
  水が流れる仕組みでした。
  もちろん、便器は和式です。
  仕組みのせいか、水量自体が多かったのかはわかりませんが、
  けっこう勢いよく流れました。
  でも、水はねとかはなかったです。


  小さいうちは、慣れてないもので、
  この水音が怖くて、
  「すごい音がするぞ」と、かなり緊張して鎖をひっぱってました。
  今の子だったら、汲み取り式の方を怖がるでしょう。
  まあ私の名誉のために、一つ付け加えれば、
  今の水洗トイレよりは、
  迫力のある大きな音ではありました。


  余談ながら、このトイレは、
  入り口より便器の部分が一段高くなっているタイプでしたが、
  その便器の位置に合わせるように、左横の壁に、
  高さ10センチくらいの細長い引き戸の小窓がついてました。
  もちろんすりガラスではありましたが、
  桟もそれなりに凝っていて和風調で仕上げてあり、
  小窓でも手を抜いてません。


  上のほうにも、ちゃんと窓はあるのに、
  こんなところにもあっておもしろいなあと思ってましたが、
  臭気や、水洗による湿気を効率的に逃すためだったのでしょう。
  しかし、場所が場所だけに、
  この小窓は、使用中は開けておけませんよ。
  トイレの外は敷地内なので、
  開けておいても大丈夫といっちゃ、大丈夫だけど、
  心理的に勇気がいります。
  実際、いつも開いているものではありませんでしたけどね。

 
  水洗だったためか、
  トイレの中には、
  ちゃんと小さな水道もついていましたが、
  なぜかそこのおばさんは、
  手水器を使っていて、
  トイレの並びにあった台所の、
  勝手口の引き戸の外にぶら下げてました。
  
 
  これって、今考えると、
  節水にもなってるじゃないですか。
  水道みたいに、じゃーじゃー流れ出ないから、
  必要最低限の量で、効率的に手が洗えます。
  水洗で使う水の量からいったら、
  たいした節水にはなりませんが、
  おばさんは、それもあって使ってたのかもしれません。
  (このおばさんのことも、近いうちに書きたいと思ってます。)
  
 
  もちろん、中の水道で手を洗ってもいいのですが、
  狭いフローリングトイレ(早く言えば板張りの便所ね)
  の中にある、これまた小さな水道は、
  いくら床近くに小窓があるとはいっても、
  床に水が飛び散らないように、
  気をつけながら洗わなくてはなりません。
  そんなことをしなくても、
  表には手水器があるのですから、
  もったいないことはしません。
  (この場合のもったいないは、
   水のことではありませんでしたけど。)
 
  
  手水器の水は、そのまま地面に垂れ流すものではありましたが、
  そこの家の場合は、
  吊るしてあるところが、一坪ほどのわずかなスペースで、
  下がコンクリートで固めてあったこともあってか、  
  垂れ流しではなく、入れ物が置いてありました。
  でも、これなら、使った水も、
  さらに水撒きくらいには使えますから、
  エコ製品としてみても、かなり優れものだったですね。
 

  もっとも、私みたいに、
  これが家にないという子供が行くと、
  その興味をひいてしまい、
  あまり節水にはならなくなるという欠点もありますけど。


  そういえば、伯母の家でも蔵前の家でも、
  これを使っているときって、
  たいてい母がそばにいて、
  「はい、もういい。」
  って言われている記憶が多いです。
  

  親に連れて行ってもらわなくたって、
  トイレくらい一人で行けたはずですから、
  この確率の高さは異常です。
  やっぱり、
  こいつはほっといたらタンクの水がなくなるまで遊びそうだと、
  見透かされてたのですかね。
  

  もちろん欠点は、これだけではありません。
  夜間は、外に吊ってあっては不便ですし、
  冬場は凍ってしまって使えないこともあったでしょう。
  東京あたりでも当時は、
  朝はけっこう氷が張りましたから、
  朝のうちは使えなかったかも。
  たとえ、凍ってなかったとしても、
  手を出すのには勇気がいりそうです。
  でも、そういった欠点をさしひいても、
  かなりよく考えられた優れものであることは確かでした。
  
   
  生活様式の変化で、
  使われなくなってしまったのは、
  いたしかたないことですが、
  でも、思うのですよ。
  これって、簡易水道としてみれば、
  今でも充分役にたつのではないか、って。
  断水時などの非常時とか、
  水道がないところでする本格的なキャンプや、
  野宿(そんなにしない?)の時とかの、
  即席に水道が欲しい時に、
  役立ちませんかね。
  
  
  手洗い以外には、使い勝手が悪いので、
  完全な水道代わりにはなりませんが、
  ないよりはあったほうが便利、
  くらいにはなる気がするのです。
  
  
  日常的に使わなければ、
  やっぱり邪魔になるだけのしろものに
  なってしまうかもしれませんが、
  お役御免にまでしなくても…って思ってしまうのです。
 

  ふと気がついたら、すっかりなくなっていた、
  という印象ですが、
  一度思い出したら、
  無性にその良さが気になって、
  生活史の中に埋もれていってしまう道具にするには、
  惜しい気がしてならないのです。
  
  
  なんとか甦る道具になりませんかしら。



 
  
  ★☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    あれこれ後記
  ★☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━    
 
         
  
  前号の日の丸、君が代には、
  反論もあるだろうなと、覚悟していたのですが
  いつもより多くメールをいただいたわりに、
  おおむね肯定的なご意見で、
  しかも、私と同じように、
  日の丸を掲げる家を見て欲しいと思っていた、という感想が、
  まるで申し合わせたように、必ず入っていました。
  当時、そう思っていた子供は、けっこう多かったんですね。
  これは、思わぬ発見でした。
  
  
  ところで、時折、懐かしいものを見つけてきて写真を送ってくださる
  大阪のかっちゃんから、
  とても珍しい写真を送っていただきました。
  これは偶然にも、前号の日の丸の話が配信された直後に、
  見つけたものだそうですが、
  まさしく、日の丸が個人の家に掲げられていた時代の名残です。
  いつものページに写真を追加しましたので、
  懐かしい光景を、思い出してみてください。

  http://wa.hitokiwa.com/photo2.htm
  
  
  かっちゃんが育ったお宅では、
  国旗を出したそうです。
  ご近所も、けっこう多かったそうで、
  それが当たり前の感覚だったとか。
  東京より大阪のほうが、
  掲揚率は高かったのかもしれません。
  もちろん、今でも抵抗ないそうです。
  それから、バスに日の丸をつけるのは、
  祝日ダイヤであることを知らせているのだそうですよ。
  いい案ですね。  


  私の妹の一人は神奈川に住んでますが、
  そこのバスも、祝日にはつけているそうです。
  ところが先月は、平日の9月20日にもつけていたので、
  不思議に思っていたところ、
  実はこれにもれっきとした理由があって、
  バスの日だからなんだそうです。


  でも、当日それを見て、
  「ああ、今日はバスの日か。」
  と思う人、どのくらいいますかね。
  妹は、
  「きっと、2週連続で連休が続くから、
   面倒ではずしてないんだ。」
  と思ったそうです。
  妹みたいに、バス会社が不精をしていると思う人も、
  かなり多い気がする…。

  
  ところで、メールをいただいたお一人のめのうさんから、
  一つ興味深い話がありました。
  めのうさんの場合は、
  子供の頃はやはり、
  日の丸を掲げる家がうらやましかったし、
  めのうさん自身、否定もしてないのですが、
  日の丸は本当に日本の旗か、
  また、君が代はどこかの国の民謡のパクリ、
  という情報をテレビか何かで知って以来、
  疑問符がついてまわって、
  そういうことが原因で、
  愛着心が薄らいでしまっているそうなのです。
  

  日の丸に関しては、
  めのうさんの見た情報の根拠となってる内容を見ないと、
  何とも言えませんが、
  めのうさん自身も、根拠はよく覚えてないそうで、
  その説のことをご存知の方、いらっしゃいますか?
  私が調べた限りでは、そういう説が見つからないので、
  どういうことでそういう説があるのか、興味があります。
 

  もしかして、
  慣習的なもので、
  法律的には制定されていないから、
  という意味ででしょうか。
  そんなことではないですよね、やっぱり。
  
   
  でも、法律できちんと制定されなかった理由は、
  ちゃんとあることがわかりました。
  それこそ、明治政府が、
  日の丸と君が代を天皇崇拝主義と
  結びつけてしまったことが原因みたいです。
  
  
  なぜなら、そういうことにすると、
  天皇が頂点にあるわけですから、
  国旗も国歌もその下にあるものになります。
  いわば下賜されたようなもので、
  それを法律で制定することは恐れ多い、
  ということになってしまって、
  うやむやになってたようですよ。

  
  明治政府が、
  こういったゆがみを押してまで、
  天皇崇拝を徹底させたのは、
  新政府安泰のためには、
  そうせざるを得なかったということがあります。
  
  
  強引さと支離滅裂な手法で倒幕を成し遂げた明治政府には、
  そのツケが回った形で、
  味方だった側にも不満分子がかなりいたし、
  庶民の人心も掌握しきれていません。


  ですから、新政府安泰のためには、
  強力に国家人心をまとめる必要があり、
  それには、天皇を頂点に祀り上げた国づくりが一番、
  というわけだったのです。
 

  純粋な文化であった日の丸と君が代に、
  勝手な解釈をくっつけて、ねじまげたのもそのため。
  でも、そこまでして過剰な天皇崇拝気運の種をまいたことは、
  後の日本が誤った方向に向かっていく元凶となり、
  また強力な促進力ともなって、
  その結果、後世、多くの国民が命を奪われたり、
  不幸な人生を強いられたりしたのです。


  さらに、その結果を受けて、
  今の私たちも、
  近隣諸国との間に、歴史的摩擦という負の遺産を負わされたり、
  国旗と国歌で、
  誤解を元にした、
  いらぬ論争を強いられることにもなったわけですから、
  罪なことをしてくれたものです。
  しかも、その場しのぎの政策、という伝統は、
  現在の政府まで、きっちり受け継がれてしまってるし…。  
  

  一方、パクリの君が代というのには、
  ちょっと笑えるおもしろいエピソードがありました。
  詳しくは、後につけましたが、
  結論から言うと、
  和歌の君が代につけられたメロディーは、
  実は3つあって、
  めのうさんのお話にあったものは、そのうちの1つ。
  でも、今の君が代ではありませんでしたので、
  ご心配なく。
  
  
  せっかく調べたので、
  まとめてみました。
  そしたら、もう1号分追加したくらいの内容になってしまいました。
  ですので、ここからは、読みたい方だけ読んでください。
 
  
  ここでリタイアされる方、
  次号でまたお会いしましょう。
  先に進まれる元気のある方、
  それではまいりましょう。
  (サバイバルゲームじゃないって) 






  
  明治初期のこと、
  日本で始めての西洋音楽隊として、
  薩摩藩軍楽隊が結成され、
  イギリス人のジョン・ウイリアム・フェントンという人が、
  指導にあたっていました。

  
  フェントンさんは、
  日本には国歌がないことを知り、
  自分が作曲するからと、
  国歌を作ることを、
  強く薦めてくれました。
  フェントンさん、なかなかいい人っぽいですね。
  

  この話を聞いた軍楽隊の面々もがぜん乗り気、
  西郷隆盛の従兄弟で、
  薩摩藩の重鎮でもある大山巌(当時は弥助)大砲隊大隊長に、
  話を持って行きました。


  この人は、あまり有名ではないですが、
  薩長のえげつない倒幕手法には、
  あまり好感が持てない私にも、
  「この人はちょっと違う」と思わせる、
  立派な人間性を持った一人です。
  

  教養もあったその大山巌隊長が、
  日本にふさわしいものとして選んだのが、
  めでたい席の祝い歌として歌われてきた、
  お気に入りの和歌、君が代でした。
  このときに彼が、
  君の解釈を天皇に置き換えることもできるし、
  とまで考えていたかはわかりませんが、
  たぶんそれはないと思いますし、思いたいです。
  
  
  君が代は和歌ですから、
  それまでは、日本の伝統音楽のあらゆる形式で、
  好き勝手に歌われてただけで、
  これという旋律があるものではありません。
  能狂言風あり、長唄風あり、白拍子風あり、
  ご当地唄あり…という感じ。


  もっとも仮に、決まった旋律があったところで、
  詩吟とか謡みたいなものだったら、
  そのままでは、
  今の私たちも、別の意味で歌いたくても歌えない、
  という人が急増してたでしょうけど。


  ともかくも、フェントンさんが、
  曲を考えてくれる…と思いきや、
  肝心のフェントンさん、
  なかなか作曲に着手してくれません。


  日本の音楽は、
  どのジャンルをとっても、
  ものすごく独特で、
  外人さんには不可解なものが多いでしょう。
  だから、日本らしくというところの見当がつかなくて、
  後回しにしてたのかもしれません。
  そもそもこのフェントンさん、
  日本の音楽も、日本語も全く知らないんですから。


  しかし、もちろんそれですむほど、世の中甘くありません。
  ついに、どうしても必要になる時が来て、
  しぶしぶ作曲にとりかかりました。
  まるで、夏休みの宿題をしないでいて、
  追い込まれた子供のようです。
  
  
  そこでフェントンさん、
  通訳をしていた元武士に君が代を歌わせて、
  その音をひろい、仕上げてみたのですね。
  その通訳が、何風の君が代を歌ったかはわかりませんが、
  日本の伝統音楽の一つであったことは確か。
  フェントンさんにとっては、
  まるで理解不能な旋律。

   
  わけのわからないまま曲をこねあげ、
  そこにこれまた、
  ただのローマ字の羅列にしか見えない言葉を
  のせてったのです。


  結果、歌詞は変なところで切れるし、
  旋律も妙という曲ができあがり、
  当然のことながら不評をかいました。


  それでも、数年は我慢して使ってました。
  記念式典などで、妙な君が代を神妙に演奏する軍楽隊と、
  歌う人々。
  当時をのぞいてみたいです。
  ついでに、初めてこの曲を聴いたときの、
  軍楽隊のリアクションも。
  
  
  ともかくも、この君が代はあまりにひどいので、
  新たに作り直す機運が高まってきました。
  フェントンさんが任期満了で帰国したのも、
  追い風になりましたかね。
  

  そして今度は、
  軍楽隊がイギリス式からドイツ式に改まったことで来日した
  ドイツ人のフランツ・エッケルトさんという人に
  依頼することになりました。
  ただし、フェントンさんの二の舞はしたくなかったのかわかりませんが、
  作曲は宮内省の雅楽課に任され、
  れっきとした雅楽系の日本人
  (氏名は、実質作ったのは誰かというところで数説あります。)
  が作った曲が選ばれました。


  そこに、エッケルトさんが編曲という形で、
  日本の音楽にはない和音をつけてくれました。
  雅楽のおごそかな雰囲気と、西洋音楽の和音の美しさの融合で、
  今度の君が代は大好評でした。
  それが今の君が代です。
  だから、まぎれもなく、
  日本人が作ったものです。
  
  
  これでめでたしめでたしにしとけば、
  ややこしいことにならなかったのですが、
  ここで、余分な功名心を出したのが文部省。
  君が代が、宮内省と海軍省主導で作られたことが気に入りません。


  法律では制定されてないのですから、
  これを国歌とされてなるものか、とばかりに、
  文部省主導の君が代を出して、唱歌として広め、
  こちらを浸透させようと狙ったんですね。
  これこそが、めのうさんが気がかりにしていたパクリの君が代です。
  
  
  しかも、パクッた原曲は、
  イギリスの古歌ではあるものの、
  ちょっといかがわしい男性用クラブの歌を作曲していた作曲家の曲で、
  もちろんこの曲も、そういう類。
  とんでもない曲を選んだものですが、
  そこまでは知らなかったんでしょうね。
  (と思いたい。) 

  
  私たちが習った時代でも、
  ○○民謡とか言って、外国の曲ながら、
  歌詞は日本語の歌って、
  よくありましたよね。
  それは、世界の音楽を知るため。


  でも、明治初期の場合は、
  外国の曲を載せるしかなくて、
  庭の千草とか、埴生の宿というように、
  日本語に置き換えられた歌が
  教科書に載せられていたのでしょう。
  (西洋音楽を素地に、日本人の感覚で作られる日本の唱歌は、
   まだ生まれてませんから。)
  
  
  ですから、それらの外国曲と同じようなノリで、
  君が代も、外国の曲にのせてしまったのかも。
  その時、歌詞が足りなかったのか、
  ご丁寧に、つけ足して長くしました。
  さらにご丁寧に、別の和歌を引っ張り出して、
  2番まで作りました。
  肝心なことには手を抜き、
  やらなくてもいいことだけは、
  一生懸命にしてくれます。
  これも、今と同じですなあ。


  しかし、適当な曲に、歌詞を切り貼りしてのせるって、
  かつてのフェントンさんみたいです。
  選んだ曲がイギリスの曲というところにも、
  フェントンさんの面影が…。
  現在残っている君が代が、
  これでないのは、そこが縁起悪かったのかな。
  

  ともかくも、フェントン効果?のおかげか、
  文部省の目論見は、
  めでたく失敗に終わったわけで、
  これが国歌となってたら、
  日本はとんだ赤っ恥をかくところでした。
  しかし、政府だけでなく、
  ろくなことをしない役人という伝統も、
  この頃から引き継がれてるとは情けない。
 

  第一の君が代と、第三の君が代を、
  歌詞入りで聴けるサイトがあったのですが、
  いろいろなサイトを見ていたら、
  どこだかわからなくなってしまいました。
  聞きたい方は、セルフサービスでお探しください。m(_ _)m


  でも確かに、今の君が代が一番だ〜と思わせてくれるものでした。
  三つの中で、一番まっとうなものを残してくれたことは、
  日本人の音楽センスも捨てたもんじゃありません。 


  こうして紆余曲折あったものの、
  これで今度こそめでたしめでたし…、
  となるところだったのに、
  後世再び、横槍を入れられるとは。
  君が代を歌詞に選んだ時にも、
  イギリスの国家を参考にして、
  日本ならこれがいいと選んだそうですから、
  そこが祟って、誤解を受けてるのかな?


  天皇制と結びつけた明治政府の時代にできた曲だから問題、
  というならともかく、
  問題になってるのは歌詞。
  でも、前号で書いたように、
  その歌詞には
  本来、天皇賛美の意味がないとあらば、
  素直に受け入れてもいいと思うのですけどね。


  さっき詩吟や謡の君が代の話をしましたけど、
  詩吟や謡も、和歌の君が代も、同じ日本の文化。
  
  
  たとえば、詩吟をやる人とやらない人が、
  強制したり拒否したりでもめることはありません。
  もちろん、興味や好みのあるなしには、個人差はありますが、
  日本人の心、歴史が培ってきたものであるという認識は、
  全員が持ってます。


  君が代から、
  貼り付けられた天皇思想をはずして元に戻せば、
  この詩吟とまったく同じものです。
  だから、左なり右なりの色眼鏡で見るのは間違いなんだと、
  私は思っているのです。
  

  戦後、君が代に反対する人たちが、
  新しい国歌を作ったものの、
  根付かなかったそうです。
  やはり、国歌には文化の重みは必要です。
  和歌と雅楽の要素から生まれた君が代には、
  それが備わってると思います。
  

  日の丸でも思ったのですが、
  日の丸に反対する人って、 
  反日運動で日の丸が足蹴にされたり、
  焼かれたりした時、
  心穏やかに見ていたのでしょうか。


  もしどこかの国で、
  帰国したくてもできない状況になって、
  君が代や日の丸に出会ったときにも、
  望郷の念は湧いてこないと言い切れるでしょうか。


  反対はしていても、
  日本の文化としてなら、
  無意識に受け入れている人は多いと思うのです。

  
  私自身、日の丸君が代をもともと否定はしてない人間ながら、
  こんなに愛着心を持っていたとは、
  我ながらびっくりしてます。
  テーマとして前号でとりあげなかったら、
  気がついてないですよ。


  潜在的にあるものって、すごいですね。
  おかげで、こんなに調べてしまいました。
  このくらいの熱心さで、勉強にもに取り組んでたら良かった…。

 
  メールをくださった方々、(ここまでいらしてくれてるかしら)  
  そして、創刊以来の大長編になったメルマガを、
  最後まで読んでくださったあなた、
  本当にありがとうございました。
  お疲れ様でございました。
  

  しかし、ここまで来てくれた人って、どのくらいいるんでしょ。
  やっぱりサバイバルゲームみたいなもんだったか。  
  
                              (ひとみ)
 

 




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