「いいとき生まれた!昭和30年代」

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         第118号 昭和と共に去っていった自宅葬儀



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        いいとき生まれた!昭和30年代  第118号     


                    2012. 9. 9  


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  猛暑の最中、 我が家では、
  隣家の解体工事で、
  日中、窓が開けられないという日が
  3週間も続いてます。


  クーラーも室外機が足場の幕に触れんばかりだったので
  使えませんでした。
  でも普段からクーラー嫌いで来客時しか使ってないから、
  扇風機と、開けられそうな窓を開けたりして
  なんとかやり過ごすことができました。
  解体が基礎部分まで行き着くと、
  振動で古い我が家まで壊れるんじゃないかという
  冷や冷や感も加わりましたし。
  
    
  でも炎天下で作業する人も、
  大変ですね。
  足場などは熱くなりすぎて、
  火傷することもあるんですって。
  昔みたいに木にしとけばいいのに。


  そんな足場も工事の進行と共に
  徐々にはずされていき、
  灼熱の3週間の工期も
  ようやくあと1日の我慢となりました。
  
 
  しかし、
  うちと隣の家との間は
  屋根も触れ合わんばかりの隙間しかなく、
  この狭い隙間に
  足場なんか組めるのかと思ったけど、
  見事なものでした。
  さすがプロ!いよ!職人技!!
 

  と熱く盛り上げた後で、
  急にテンションを落としますが、
  今回は葬儀の話です。


  何の関係があるんだー!
  どこまで落とすんだー!
  縁起の悪い話をするなー!
  などなど、
  ブーイングの嵐になっていそうですが、
  だから、いきなり入るのも悪いと思って、
  最初に暑い話と熱い話で
  盛り上げてみたんですが…やはりだめ?


  でも、取り上げずにはいられなかったのです。
  
  
  実は、この春、父方の本家の伯父、
  つまり父の兄が亡くなり、
  愛知まで行ってまいりました。
  その時に住職が言った一言で
  あることに気がつかされたのです。
  

  伯父は信仰心が厚く、
  代々の菩提寺であるお寺で、
  檀家として役をしたり、
  晩年は僧侶の一番低い資格もとったりしてましたので、
  斎場までいらした住職も、読経後の話では、
  故人の生前の思い出話をいろいろしてくれました。
  
  
  そんな話の後で、
  住職がこんなことを言いました。
  「ちょっと前まではお檀家さんのご葬儀は、
   ご自宅に伺うのが普通でしたが、
   今は、こういった斎場に出向くことがほとんどです。」
  

  そう言われてみると、
  自宅で行う葬儀って
  本当になくなったと思いませんか。
  この間、みのもんた氏が
  奥さんの葬儀を自宅でやりました。 
  自宅葬儀が普通だったのを知ってる世代だから、
  自然に受け入れてたけど、
  もしかしたら、若い人の中には、
  特殊な形と思った人がいたかも。

  
  考えてみたら、当然のことながら、
  これからは、
  「葬儀は斎場でやるもの。
   自宅での葬儀なんて知らないし、
   できないし、考えられな〜い!」
  って人ばかりの世になっていくのです。
  

  となると、
  これも時代の流れで消えていく文化の一つではないか。
  そこに気がついたら、
  縁起の悪い話でも、
  取り上げずにはいられませんでした。
  

  というわけで、お許しくださいね。

  
  そういえば、自宅葬儀が消えたことで、
  家の表に、黒白の大きな花輪が並んだ光景も
  いつのまにか見なくなってました。  
  (もっともこれ、表に飾るだけに、
   本数とか送り主の名前とかで、
   故人とは縁もゆかりもない、
   通りすがりの人までが、
   故人を無意識に推し量るという
   いやらしい面もありましたけどね。)
      
  
  今では、表に花輪が並ぶ光景は
  開店祝いの紅白花輪くらいしかありません。
  しかしそれも、昔と比べるとかなりコンパクトだし
  デザインも地味めでシンプルです。
  地域によっていろいろなのかもしれませんが、
  昔のあの大きな花輪って、
  今でも使っているのでしょうか。
  
  
  斎場葬儀が中心となったことで消えたものは、
  まだあります。


  地域の助け合い。


  お葬式ができると、
  祭壇などメインは葬儀屋に任せるとしても、
  細々とした準備や雑用、裏方などの手伝いは、
  当然のように町会の人が手を貸してくれました。
  通夜の料理なども、
  ご近所の主婦が全部手作りしましたよね。
  
  
  そういった必要がなくなって、
  余分な負担がかからなくなったものの、
  日本古来の助け合い社会の形も消え、
  人のつながり、地域のつながりの希薄化に
  拍車をかけたような気もします。
  

  もっともうちの町会では、
  父の斎場葬儀の時にも、
  受付などもろもろの係は、
  町会が全部するからとの申し出がありましたし、
  火葬場まで町会の役の人も来てくれたりしましたので、
  まだ昔の名残はあると思いますが、
  将来的に、人が変わっていったら、
  どうなるかわかりません。
 

  でも、自宅葬儀が少なくなったのは、
  決して古い話ではなく、
  平成になってからのことと思います。
  なぜなら、我が記憶をたどってみると、
  昭和の時代に参列した葬儀は、
  全部が自宅葬儀だからです。
  
   
  そして、そんなことを思い出しているうちに、
  どの葬儀にも、
  不謹慎な自分がいることに
  気がついてしまいました。


  辛気臭いとひんしゅくをかうかもしれませんが、
  懺悔を兼ねて、
  ちょっとその記憶を
  たどってみます。
  
  
  初めて葬儀というものに参列したのは昭和42年。
  小学校2年生の時でした。
  クラスメートのお母さんが亡くなり、
  その子と仲のいい3人を
  先生がクラスの代表として
  葬儀に連れていったのです。
  その中の1人が私でした。
  
  
  自宅葬儀では
  家の中には入りきれないことも
  多々あること、
  私たちは庭に立っていました。
  小2の子を持つ母親ですから、
  若くして子供を残して亡くなったわけで、
  参列している人たちも
  より沈痛な面持ちでした。
  
  
  しかし、小学校2年生の私たちにとっては、
  お葬式は初めての経験でもありました。
  で、あろうことか私たちは、
  なんだかいつもと違う大人たちの雰囲気が
  おかしくておかしくて、
  思わず3人で顔を見合わせて、
  クスクスと笑ってしまっていたのです。
  
  
  担任の先生は、
  優しい女の先生でしたが、
  この時ばかりは、
  これまで見たこともない怖い形相で、
  「こら!」
  と叱られました。
  当然ですわな。


  「まったく、最近の子は…
   とんでもない子たちばかり連れて来ちゃったわ」
  とか思われてたかも。
  
  
  そんな時です。
  座敷の中に
  友達が、行儀良くちょこんと座っている姿が、
  ちらりと見えました。
  「あ、○○ちゃんだ」
  私たちは家の中を覗き込みました。
  

  相手は横を向いているし、
  離れているので
  気がつきません。
  しかし、その姿を見たとたん、
  母を亡くした友の立場に思いが至り、
  私たちも、
  一気に神妙になりました。
  

  泣いていると思った友が、
  落ち着いて座っていたのが意外な感じもしましたが、
  今になって思うと、
  何がなんだかわからないで
  とまどっている姿だったようでもあり、
  運命を達観して、
  子供ながらに現実を受け入れた
  姿のようでもありました。


  しかし、だからこそ、
  より深い悲しみを誘う姿であったのではないかと、
  思います。
  そういう雰囲気を、
  私たちも、直感的に感じとれたのかもしれません。

  
  翌年、私が転校してしまいましたので、
  お別れしてしまいましたが、
  あの時の友の姿は、今でも忘れられません。
  

  そして、先生の怒った顔も…。
  
    
  次は昭和47年、中学1年の時です。
  この年は、母方の祖母が10月に急逝し、
  落胆したか、寝たきりの祖父も、
  後を追うように12月に亡くなりました。
  

  この祖母の時に、
  初めて直接人の死に出会ったわけですが、
  夜中に車を飛ばして、
  朝方着いた母の実家で祖母と対面した時、
  泣くより前に、
  人が物体みたいに動かなくなってしまう不思議さの方が
  先に来てしまったのです。


  もちろん、それが死だとは理解してますし、
  それまでにはペットの死なども経験してるのですが、
  その時は、
  動いていた人が
  動かなくなってしまうという当たり前のことが、
  なぜかことさら不思議に思えて仕方なかったのです。


  祖母の死を  
  頭ではわかっていても、
  心に受け入れることから
  無意識に逃げていたのかもしれませんが、
  泣くより前に、   
  そんな方向に思考が走っていた孫を
  祖母が見逃していてくれてたならいいなあ。
  孫の数、多いことだし。
 
  
  2年生の時の友も、
  こういう感じで呆然としてたのかな。
  しかし、もう中一ですから、
  同じレベルで考えるというのはどうも…
    

  この祖父母の時は、
  愛知での母の実家の葬儀でしたが、
  東京ではないことが2つありました。
  

  1つは、
  喪主は、黒ではなく、
  白の喪服を着ることです。
  調べてみると、
  どうやら白の喪服のほうが古い習慣らしいので、
  昔の名残が残っていたと言えそうです。


  もう一つは、
  喪服姿の写真屋が来て、
  バシバシ写真をとってました。
  そして葬儀の後には、
  遺影を囲んで親族一同の
  集合写真も撮りました
  
  
  母の実家は、父の実家と同じ市内、
  しかも、歩いていこうと思えば歩いていける距離ですから、
  今回の伯父の斎場での式でも
  こういうことが見受けられても
  おかしくはありません。
  でも、今回はそのどちらもありませんでした。
  時代の流れでなくなってしまったのか、
  斎場ビジネスで、
  画一化されてしまったのかは
  わかりません。
  
  
  もっとも、今回の斎場葬儀でも
  違っていてびっくりしたことは
  ありました。
  東京ではお通夜が終わってから食べる通夜ぶるまいを
  お通夜が始まる前に食べること。
  親類が食べるのは最後の最後と思って、
  食べてから行ってしまったので、
  おなか一杯でお茶しか飲めなかったわ。
  
  
  しかも、その料理っていうのが、
  太巻き寿司のパック1つだけ。
  東京では
  一応それなりに盛り料理なので、
  最初は、いとこがケチったか?と思ったけど、
  このあたりではこれが普通らしいです。


  でも、パック1つずつですむなら、
  こっちのほうが
  断然いいなあ。
  通夜ぶるまいを時間をかけて、
  ばくばく食べまくる人は
  そうはいないから、
  食材廃棄率は高いなと思ってましたので。
  
  
  式自体の進行の仕方も、
  かなり大きく違ってましたけど、
  これは斎場によってもけっこう変わるものなので、
  地域差かどうかはわかりません。
  
  
  その次の葬儀は、
  昭和51年か52年の頃の
  お向かいの家のおばあさんの葬儀。
  

  当然、お向かいの家で葬儀をするのですが、
  そこの家は、
  玄関を入ってすぐがキッチン&ダイニング。
  そこを料理を作るために使ってしまうと、
  邪魔になるし、
  葬儀のスペースもとれなくなるということで、
  料理は向かいの我が家の台所で
  作ることになりました。
  
  
  といっても、うちの台所は、
  お向かいの家より狭いんですけどね。
  まあ足りないところは部屋も開放して
  なりふりかまわずってことで、
  我が家は大変にぎやかなことになりました。
  
  
  当時の私は高校生でしたが、
  学校から帰ってきて玄関を開けると、
  たくさん人が来ている様子。
  
  
  そりゃそうです。
  町内の知ってるおばさんも、
  知らないおばさんも、
  料理を作るために奮闘してるのですから。
  
  
  その日は大雨だったので、
  玄関で
  「拭くもの貸して〜」
  と叫ぶと、
  母ではなく、
  知らないおばあさんが顔を出してくれました。
  

  するとそのおばあさん、
  「娘さんが帰ってきたわよ〜。
   あらまあ、こんなにぬれちゃって。」
  と、カバンに至るまで丁寧に拭いてくれるではないですか。

  
  いつもの雨の日だと、
  玄関先で叫んでも、
  運が良くて、
  雑巾だけが無愛想に飛んでくる、
  運が悪けりゃ、
  自分で膝をついて取りに行く、
  ましてや、拭いてもらえるなぞは、
  天地がひっくり返ってもありえない、
  という待遇なもんで、
  これには感激しましたわー。
  
  
  こんなことしてもらったの
  はじめてだ〜!!!
  おばあちゃんが一緒に住んでいたら、
  こういう感じなのかなあ。
  悲しいお通夜というのに、
  思わぬ待遇アップに、
  ついデレデレ。


  「人がたくさんいるっていいなあ。
   毎日こうだといいのに〜。」


  この馬鹿者!
  何人殺す気だ!
 

  そして自宅葬儀に参列した最後は、
  昭和50年代後半くらいの頃。
  もう社会人になってまして、
  以前の職場でお世話になった人でした。
  初めての神道による葬儀で、
  お作法を説明を受けながら、
  参列をしました。

  
  その通夜ぶるまいの席で、 
  挨拶に来た遺族が言いました。
  故人はにぎやかなことが大好きだったので、
  通夜とはいえ、
  遠慮せずに
  どうぞにぎやかにしてくださいと。
  で、前の職場の懐かしい顔ぶれが揃ったこともあって、
  本当ににぎやかにしてしまったのですが、
  鵜呑みにしてしまって良かったのだろうかと
  後で大変気になりました。


  後で気になるくらいなら、
  その時に気がつけ。
 
   
  さすがに父の死では、
  こういうことはなかったと
  思ったのですが、
  そうでもないんです、これが。


  この話は、よく言えばおまけ、
  悪く言えば脱線。(よくあることだけど)
  

  昨今は、亡くなった後、
  病院から直接斎場とか火葬場とかに
  直行させてしまうケースもあるようですが、
  やはり1度は家に帰してあげたいですよね。
  もちろん、父もそのようにしました。


  お通夜まで、
  3日あったせいもあり、
  一晩、自宅で仮通夜をして、
  それから斎場に安置してもらったのですが、
  その斎場は
  うちから歩いても5分くらいの距離しかありません。
 

  しかし、それでも斎場からは車で迎えに来ます。
  ま、当然です。
  近いからリヤカーで来ました、
  ってわけにはいきません。


  でも、自宅から斎場へ運ぶ料金は、
  距離に関係なく1万円なのだそうです。
  斎場の人も、説明の時、申し訳なさそうでしたが、
  まあ致し方ありません。

  
  そして本通夜の晩だったかに、
  身内でそんな話が出たときのこと。


  「それなら、
   みんなで夜中にこっそり抱えていきます
   って言えば良かったかね」
  「途中でおまわりさんに見つかって、
   何を運んでいるんですかって聞かれて、
   死体ですって言ったら、
   みんなそのまま警察に連れていかれちゃうね」
  なんていう冗談話をしてましたわ。


  どれだけ不謹慎なんだー!
   

  しかし、とても悲しい時に
  こんな冗談話が出てたっていうのは
  ある意味、救いになってた気もするのですよ。
  父もふざけるのが好きだったから、
  笑って許してくれるかなあ。 
  考えようでは、
  身内でないとこんな冗談は言えないわけだし。    
 

  それはともかく、
  今回、書いていて気がついたのですが、
  同じような斎場での葬儀と違い、
  自宅での葬儀は
  その場の特徴があるせいか、
  一つ一つをよく覚えているものですわ。
  
  
  これは決して、
  若い頃だったからとか、
  葬儀の機会も少なかったからとかいう
  理由だけではないと思うのですが、
  皆さんはいかがでしょうか。
  
  
  今回は縁起の悪い話で恐縮でした。  
  お許しくださいね。
 


 
  ★☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    あれこれ後記
  ★☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  
  

  ◇亡くなった伯父は、
   父と血がつながってるとは思えないほど、
   几帳面で実直なまじめ一徹人間。
   葬儀の席でも、
   あの人に恨みを持つ人はいないという話が
   あちこちで出ていたくらいです。
  
  
   昭和38年に、勤務先で泥棒を捕まえ、
   警察から表彰されていたなんてことも、
   斎場に飾られた表彰状で初めて知りました。
   生前、一言もそんな話をしなかったのも
   伯父らしいです。
   
   
   しかし、小柄な伯父がよくそんなことをとびっくりしたら、
   泥棒が入りこんだ倉庫に
   鍵をかけて閉じ込めてしまったという手法でした。
   ひょっとして犯人って、
   猿とか猪だったのか?
   ともかく、動物と同レベルで捕えられた犯人が、
   その後はまっとうな人間となっていることを願っております。
   
 


  ◇父方の祖父母は、子供が生まれた時、
   菩提寺に名前をつけてもらっていました。
   自分たちでつけることもあったのですが、
   そうすると、
   なぜか幼くして亡くなってしまうということが
   あったようです。

  
   戸籍を見ると、父の兄弟は本当は9人で、
   そのうち3人が幼くして亡くなってました。
   そのうちの1人は、
   父の生まれる3ヶ月前に亡くなっていますので、
   父の名前をお寺からもらったのも、
   うなづけます。
  
    
   子供の頃、両親の帰省の折には
   この菩提寺に当然お墓参りに行きます。
   それはいいのですが、
   肝心のお参りするお墓を間違えていて、
   いつも隣のお墓を一家で丁寧にお参りしてた話、
   書いたかな。
   
   
   父が松の木の下ということだけ目印にしていて、
   土地に多い名ゆえに、
   たまたま隣も同じ名字で、
   よく確認もしなかったのですね。
   父がここだと言うのですから、
   誰も疑いませんよ。 


   その事実に気がつくまでには、
   今回亡くなった本家の伯父が
   たまたま「俺も行くか」とついて来た日までの、
   なが〜い年月を経ねばなりませんでした。
   いつまでたっても気づかない子孫に、
   あきれたご先祖様が、
   ついに伯父を差し向けたのかも。   
  
     
   そんな父ですが、
   住職がいる時は、
   必ずお経をあげてもらっていました。
   それだけは間違いなく 
   ご先祖様に届けられたはずで、
   お願いしていた甲斐もありました。


   ところで、その準備を待つ間、
   いつも本堂の傍らの部屋に行くのですが、   
   その部屋には、
   抱き地蔵系の仏様が安置されておりました。
   いわゆる
   お願いごとをしてから持ち上げてみて、
   軽く持ち上がれば願いがかない、
   重くて持ち上げられなければ、
   かなわないという仏様です。


   この仏様を前に、
   父がよく話してくれることがありました。
  
  
   今の実家は少し離れましたが、
   父が子供の頃は、本当にこのお寺のすぐ近くに住んでたので、
   よくこのお寺に上がりこんで
   遊んでいたそうです。


   しかし、何度か書きましたけど、
   父はとにかく、腕白いたずら坊主。
   ある時、父を含んだ悪ガキ共が、
   この仏様を持ち出して、
   罰当たりにも、
   ほいほい渡し合って遊び始めました。


   その時です。
   突然、この仏様が
   ググッと急に重くなったのだそうです。
   びっくりした悪ガキ共は、
   あわてて戻して
   逃げ帰ったのだとか。
  

   最初、父のお墓をここでということを考えたものの、
   東京からだと遠くて大変なので、
   あきらめましたが、
   父が東京に行く運命になって
   そういうめぐり合わせになったのも、
   この時のことが原因?
   

   でも、戒名だけはこちらでいただき、
   菩提寺のお経で1度くらいは供養をしてあげたいと
   亡くなった年に、
   法事ではないのですが、
   法事みたいなことをさせてもらいました。
   
   
   その時に久々に訪れたお寺は、
   昔の面影は残しつつ
   ところどころ微妙に変ってました。
   お墓も整理され、
   本家のお墓の場所も移動したということで、
   それこそこのたび亡くなった伯父に
   また案内してもらったものです。
   

   このお寺は知多半島の札所めぐりのお寺の一つとなっており、
   参拝客も昔と比べて増えているのか
   昔は見たことない団体客も来てました。
   定期的に札所めぐりツアーなどもあるようなので、
   そういうことを意識して
   少しずつ手を入れていってるのかもしれません。


   そして、あの思い出ある仏様も、
   わかりにくい昔の場所ではなく、
   本堂の近くにある別のお堂の外で
   参拝客をお迎えするように、
   鎮座ましており、
   参拝客の願掛けを受けておりました。
  

   思わぬところでの突然の再会で嬉しかった反面、
   正直言いますと、
   父から話を聞いた場所でなくなったことで、
   父との思い出もなくなってしまったような気がして
   ちょっと寂しい気がしてしまったのです。
   

   悪ガキの子供である私の願掛けにも応えて
   持ち上がってくれていた仏様。
   再会の記念に
   再び抱き上げてみたい気持ちはあったのですが、
   そんな思いに囚われてしまったことで躊躇してしまい、
   なんとなく抱きそびれてしまいました。
   

   と思ってたけど、
   実は仏様に拒否されていたとか?


   あれ、今回は、後記も仏関連になってしまった。
   まあ、今月はお彼岸もあることですし、
   皆様も、ご先祖供養をしてくださいませ。

   
   それにしても辛気臭い話を
   9並びの日によこすなんてと
   思わないでください。
   大安吉日、重陽の節句という
   おめでたいことが重なる日をわざわざ選んだのですよ〜。
                
                (本当はたまたま…ひとみ)
   
   
      

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